昭和52年11月14日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
限りない信心の精進が必要であると。生神を目指させて頂くと言うのですから、御理解その前の十七節に「神の綱が切れたと言うが」と言う御理解がありますね。「神は切らぬ、氏子から切るな」と。「切らん」と言うてただ神の綱にこう縋っておるつかまえておると言うだけでは、生神への道にはならんのです。言うなら投げかけて下さるそのご縁の綱にしがみついて、そしてそれを、手繰って手繰って、手繰って行くと言う所が、生神への道なんです。だからもう絶えず。
例えて申しますと、そこに溺れておる人がある。それを船を出して、こう綱を投げてやる。そうすると、その綱に縋ってこう船の所まで寄って来ますわね。するとなかなか上からも引き上げようとして下さるけども、こっちもやっぱりその船のなんと言いますかね、船縁の所へ手を掛けて、やっぱり一生懸命に上がろうと努力しなければならない。なかなか濡れた着物、疲れ切っておるというのですから、なかなか出来ませんけれども、そこに一ふんばりさせて貰うて、その船に引き上げて貰い。
また船によじり登って中に船に入って始めて言うならば、お徳の船に乗せて貰うたと言う事になるのじゃないでしょうか。久留米の石橋先生が仰っておられる。「この世は徳の船に乗って渡れ」と仰ったと言う事。だからあの「徳の船に乗って渡る」と言う事が「生神を目指す」と言う事なんです。生神というその金光大神御自身がいくらもの言うなら段階を追うて、御神格がお進みになっておられるわけですけれども、その生神様と言う様な所は私共ではなかなかでしょうけれども、目指す所はそこだ。
ですから徳の船に乗って渡られるためには、やはり投げられたその綱、そしてその綱に縋ってこう登っていく。それでその綱にちゃんとこうぶら下がっておるというだけではないのです。神の綱を切らんというだけじゃない、その綱に縋って言うならば船縁まで、そして船縁に手を掛けて引き上げても貰う、また自分も上がる力を渾身の言うならば力をそこに発揮する、出さなければ出来ません。
言うならばそれをおかげの面で言うならば、神の御発動を頂く程しのところには、例えば百のものが九十ではまだ駄目なんです。それこそ九十九と言う様な所を通って、もう一頑張りという時に百になるようなもんです。だからその辺のところを一つ大事にしていかなければ、生神へ向かう、生神へ向かうと言う事は神の綱を握っとるというのではなくて、それを手繰って手繰って手繰り寄せて、その船に掬い上げて貰う、又自分もそれに乗り移らせて頂けれるおかげを頂いて。
「成程この世は徳の船に乗って渡る」と言う事が言えるのじゃないでしょうか。そこでですけれども、その綱を手繰り寄せておる、言うなら船に乗るまでの信心が、まあ問われるわけですから、それをどういう生き方どういう信心をさせて頂いたらよいかとまあ言うことになるのです。昨夜いつもの様にまあ私此処へ出て参りましたのは、まあ十二時位だったでしょうか。そこの信者控えで豊美達が夫婦、それに栄四郎それから椛目から来とりましたから池尻と四、五人でまあ一生懸命信心の話をしとりましたから。
私も中に入って丁度二時頃までお話しとりました。昨日は修行生の方達の夜の会合があって、その会合が済んだというてその半ばから末永先生も入って来ましたから、いろいろ信心の、まあ信心のというのが、結局最近言われる「願いの信心」と言う事、と言う事をまた繰り返し繰り返し同じことを話させて頂きよりましたら、豊美が「願いの信心と言う事が毎日毎日説かれるけども、初めて少し分かりだした」と言うのですから、これはもう、繰り返し繰り返し頂かにゃ分からんごたるわけですね。
今度合楽理念にまた一ページ「願いの信心」、しかもその「願いの信心」というのは、もう金光教の言うならば最高の信心だと。そこでその願いの本質と言った様なものに迫っていっておるわけですから、それを日々皆さんに聞いて頂いておる。なぜ願わなければならないか、その同じ事を繰り返し繰り返ししながら、願いと言う事がどんなに素晴らしいことかと。そして願わして頂くことはどう言う事かというと、結局は神様の願い、神様が私共にかけて下さる願いが成就することを願うのである。
ところが生身を持っとる人間ですから、なかなか精進に精進を重ねておっても、どこにお粗末ご無礼があるやら分からん。またあることを自分でも認めておる。けれども縋らずにはおられないというその根本が、親との出合から始まるのですから、親であり子であると言う所から、神様がそういう信心になると、神様のおかばいの中に信心を進めていくことが出来ると。という風になる。
まあその願いの信心を昨日は、一生懸命同じ事を繰り返し繰り返し話させて頂きながら、まあその毎日聞きよるけれども、どうも分からなかった。願いちゅうとは誰でもしよる。金光様の信者である限り願いは誰でもしよるけれども、それがその本当の願いのその本質に触れた願いではない。ただ我情我欲のための、と言う事になる。昨日はあの白虎隊の話がなかなか、みんな分からなかったごたる思う。
ただ一家一城のために、例えば命を賭けても、それは大したことはない。金光様の信心を頂いておるものが、それこそ大変なおかげを頂いた。例えば、商売をしておるなら大繁盛のおかげを頂いて、もう金光様のおかげを頂いたと言わずにはおれない程しのおかげを頂いておっても、二代に持ち続けることが出来ん、三代に持ち続けられないというのは、ただお願いをした。御用を頂いた。
御礼を申し上げた。またお詫びをしたというだけの信心からでは大したことは生まれない。神様の願いと直結した願いでなからなきゃならない。その願いの内容というのは、今まで願いよったことと大して変わらん。もうそれこそ痛い痒いから牛馬の事に至るまでどういう事でも願う。だから願うその事、願う言うならば言葉は同じであっても内容が違う。親であり子であると言う事が分かってからのもの。
ですからその言うなら昨日の御理解を頂くと、合楽教会大発展の御神願成就を願わして貰い、また合楽教会大発展の御神願につながる祈り、願いを持てとこういうのです。これはどういうことになるかというと、神様の一番の願いであるところの「世界総氏子身の上安全、世界真の平和達成の御神願」につながると。ぎりぎりの所は。合楽教会が大発展をするということは、なら金光教の信心が発展することと同じ事だと。
金光教の発展、そして合楽で言われておる「和賀心時代を世界に広めていこう」と言う様な願いにつながっておると言う事。願いの言うならば祈りの言葉なら言葉と言うのは同じなんです。最近これはどうもおかしいなと思うのは、御本部の御大祭なんかにお参りさせて頂いて、斎員の先生方がだんだんお祭りが始まって祈願詞を奏上されるごとなると、徐に懐から「祈願詞」を出されてね、そして、こうやって読まれるのがどうもおかしいような感じがする。
ところが本部の方では、やはり目で追うて読まなければ値打ちがない。あの書いてあるその一字一字が素晴らしいことなんだ。だからその素晴らしいことを追うていくと言う事。だからそのことの言うならば空暗記した、ただ空読みをしただけではいけないんだというので、必ず読まれることになっておるんだそうですけれども、それでは読んで頭の中に入るだけで、それを唱えたあとにこれは言葉では表現できない有難いなという、これは大祓信行で皆さんが体験しておられるのがそれなんです。
もう無条件に、それは大祓いの内容という意味を言うたら、金光教の信心にピッタリこないような節もあります。けれども、そういうことは全然問題じゃない。ただ一心不乱にしかも無条件に、神様の前にそれを御供するような気持ちで、奏上させて頂くと言う事が、神様が生き生きとして見えると言う事で、合楽では大祓信行。だから頭でどう言う事なんかと判って読みよるものではない。
「祈願詞」というのはその一節一節が素晴らしい文句で綴ってありますから、それが頭に入っていくというだけで、心に入っていかないという懸念がある。だから信心の例えば味わいというのは言葉じゃない。自分の心の中に有り難いものが湧いてくる。豊かになってくる。今まで言うならば辛いとか、苦しいとか思うておるその思いがです。いつの間にか消えて有難いものに変わっていく程しの心の状態が、言うならば信心させて頂く者の妙境ということでありましょう。
そういう不思議な心の中の開けること、心の中に有難いものが感じれれる様なことをです。今のこれは宗教一般に言えることですけども、金光教でもその辺のところを大変疎かにしておるような向きがある様だと言うような話を、まあ昨日は繰り返さして頂いた。中で、十三日会の皆さんのまあ本当に素晴らしい発表を聞かせて頂いたという話が出ましたが、中に、繁雄さんの発表されたお話が素晴らしいと、後からぞうっと。まあ短いお話だから誰でも覚えとる。「あげん言いなさった。
こげん言いなさった」「もう大体、語り振りが良かった」と言うて、その皆さんがそれをまた改めて頂き直した訳でしたけれども。本当にそのまあ皆さん、十三日会に見えてなかった方もありますから、繁雄さんの話を致しますとね、例えばあの自分が魚屋さんをしておる。それでまあ注文を受けておる魚を配達せんならん時間にまだ間があるからと思うて、当時の椛目にお参りをする。お参りをすると、親先生が「こげな御用があるばい。この御用をして行きなさい」とこう言われる。
と言うて「実は今日は一時までに行かんならん」と言った様な言い訳をすることは信心ではないと教えて頂いておるから、「はい」と言うてその御用をさせて頂いておった。そしたらもう一時はとっくに過ぎて、ようやく御用が終わったから、その魚を注文されとるところへ配達をした。そしたら向こうでも何かにその時間が遅れて、丁度よか時間に間に合うた。でまあそこで無事に魚も納まることがでけた。
そこに親戚の人かなんかが来とってから、その魚屋さんに「丁度よかった、私げにもこうして御祝儀があるから、その時の魚はあなた方にお願いする」と言うて、そういう注文までとってきた。そういう例えば、おかげを頂くと言う事は、一にも二にもその自分というものを空しゅうしなければいけない。「先生、それは御用もありましょうけれども、ちょっと実は今日は一時までにどうでも品物を納めんならんところがありますけん」と言うたら、もう信心にはならんという話をなさいました。
それはもちろん自分が魚屋さんではないわけですけれども、まあ魚屋さんに例えて、自分が二十何年間、信心をさせて頂いて、親先生の御用をさせて頂く様になってそういうことはいつもあった訳なんです。言うならば、「御取次を頂いて起きて来る事、良い事も悪い事も皆良い」と言う事なんです。「御取次を頂かずして起きて来る事、良い事悪い事皆悪い」ということを、そういうお話でなさいました。「御取次を頂いて、起きてくる事、良い事悪い事、皆良い」と言う確信なんです。
そしてなら信心とは信ずることだと言う事を真にして話されたんです。信心とはもう信ずることなんだ。そこでなら親先生の言葉一つ一つをです。そういう頂き方を言い訳なしに頂くと言う事は、ちゃんとお繰り合わせが頂けて、しかも思いがけない注文まで入ってくるようなおかげを頂けるということを、言うなら自分の体験から話された。ところが実際はまあそうではない場合も沢山あった。お野菜を「こういうお野菜を作りたいと思うが」とお届けをされる。
そうするとそれが大変安かったり「どこの市場にやらせて頂いたらよかろうか」と言うのでどこの市場に出されると、どこの市場よりも一番安かった。言った様な事もその中にはあるけれども、だからそういう自分の都合の良い様にばっかりなると言う事。それから、都合の悪い事にもなると言う事。それをひっくるめて神様の働きに、「御取次を頂いて起きて来る事全てが良い」「御取次を頂かずして起きて来る事、良い事悪い事全てが悪い」と言う様な信心がでけた時に始めて、確信と言う事になってくるんだと。
これは長い間体験をさして頂かなければ、ほんならある時、親先生の言われる通りにして損をした。もうそれでそこで言うならば、「こら親先生の言う通りにしようとこりゃ損することもあるけんで、親先生の言う事ばっかりにはいかんばい」と言うた時には、もう言うなら神の綱を切ったようなもの。だからいつまでたっても船に乗っていわゆる渡る。「この世は徳の船に乗って渡る」と言う事にはならないと言う事。
生神を目指すと言う事は、「此方が生神様の第一号でお在りになる。だからみんなもこの様なおかげが受けられる」と教えておられる教祖の神様もです。その信心過程に於いては、神様の仰せ通りに仕祭らせて頂いても、反対の事反対の事へとなっている。そう言うのを神様のお試しとも言うておられる。そのお試しに合格して始めて、本当に神様の働きの間違いなさと言う事が分かって来、そこんところがお願いしてもお願いしても、裏目裏目になって行く、反対反対になって行くと言う所を。
言うなら綱に縋って船に乗せて頂くと言う事は、だからそう簡単な事ではないと言う事。けれどもそこに生まれて来るのは確信である。神の綱が切れたと、ただ神の綱にこう縋っておると言うだけじゃなく、それを一つ一つ手繰り寄せて船の所まで行き、そしてその船に乗せて貰うと言う所まで行かなければならないと言う事。繁雄さんのあの体験の中に、あの豚のお話がありますね。もう親先生が「そこで買え」と言われたから」一番がり子で一匹残っておるという。
すと他の方には立派な豚がおるけれども、息子さんの国雄さんが「とても買いに行ったばってん、あんたもうがり子で一匹残っておるともう、あれはとても育たん」「それでも、親先生が買えと言われたんだから」「それは、言うならば久富の家、信心のある家にでもそれを引き取ってもらはなければ、とてもよそでは育たんだろう。神様のおかげで育てさせて貰う、だから、それをおかげ」と言うて、わざわざがり子の方を買ってきた。ところがそのがり子がそれこそ女豚であった。
いわゆるもうその子供を産むことが産む事がもうそれこそたまがる様に、まあ良い種豚であったと言う様な話がね。そういうおかげもずうっと頂いておられる。けれどもそれとは反対にです。親先生の言われた事に対して、却って損になったとか、分が悪かったと言った様な事にもなるけども、それをひっくるめてです。「御取次を頂いての事であるから」と。それが頂き貫けた所に、私は生神への道があるとこう思うのです。
だからただ神様に縋っとるというて、その綱に縋っとるというだけではいつまでたっても、「徳の船に乗ってこの世を渡れ」と仰る様な所には出られない。また信心はそこが有難いのである。そこが楽しいのであると言う事が分からなければいけない。昨日繁雄さんの話を聞かせて頂いて、その話が夕べもまあ出た訳でございましたけれども、今日は御理解では、生神への道というのはただ長年信心しておると言う事だけで生神への道を歩いておるということにはならない。
御取次を頂いて起きてくる事、良い事悪い事、目先には損な事になるような事であっても、それを御神意として頂けれるおかげ。「御取次を頂かずして起きてくる事、良い事悪い事皆悪い」と結論が出る程しの信心を信じた時に、始めて信心だと言う事であります。そこに、生神への道がはっきりして来る訳です。そして後から考えてみると、成程それがおかげであったなあ。神愛であったなあ。成程親であるなあ。子であるなあと言う様なことが段々実感されてくるようになるのです。
金光様の御信心をさせて頂いて、いよいよ生神への道を私共が進ませて頂くと言う事は、ただ投げかけられた綱をただ握っておくというだけのことではなくて、それを縋って上に上がっていかなければならない。そこんところをです。まあ例えば願っていく。それは神様の願いである。その神様の願いを私共も願って進んで行く。そこに言うなら親子の本当の対面言うならば、ポンとこう柏手をすれば音が出る様な音にもなってきて、それから先は生きとる間もうまずは、願わなければおれない事ばっかり。
縋らなければおれない事ばっかり。そう言う信心が繰り返されて、生神への道を一歩一歩縮めて行く事が出来るんだというふうに思います。どうぞ今日は十八節を聞いて頂きましたけれども、十七節の言うなれば、「綱は神からは切らん」と仰せられるからと言うて、「何十年金光様を信心しとります」と言うて、しがみついとると言うだけではいけないと言う事も聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。